障害のある子どもを持つ親特有の感情
「親より先に死ぬ子どもは、親にとって一番の親不孝」と言われている。
でもその子どもに知的障害などの自立が難しい障害があった場合、親にとってはその子を残し自分が先に逝く、強い不安を抱えて亡くなるより、その我が子の死に顔を視て、強い悲しみと共に何故か安堵を感じてしまうこともあるだろう。
先日話したある方との懇談のなかで、この体験を通してそのように語った人が居た。
寿命の流れからすると、親が順番として先に逝く。
ただその親からすると、自立が困難な子どもを残して先に逝くことは、その寿命の流れを無視してでも我が子を看取りたいという親心でもある。
障害のある子どもたちを持つ親は、このように一般では理解し難い考えや想いを持ってしまう人も多いのではないか?
一考すると、親のエゴでもあるが、今まで我が子の人生をずっとずっと心配し続けてきた親として、唯一許されるエゴでもあると感じた。
我が子が将来の自立の為に療育する。そして社会に対して順応できるように教育する。そしてしつける。
ただその自立をする前に我が子が亡くなってしまったら、それで安堵になってしまうことは、またこれも矛盾しているけど、それが親心なのかな?と思う。
久しぶりにブログを書いたのに、かなり重たい内容になってしまったけど、ここはいま自分が感じている思っている事を唯一好き勝手に書く場所だと思ってる。
娘の真彩も術後3週間の入院を経て、2月26日に退院。そして妻の誕生日である2月27日は無事に家族4人で祝うことが出来た。
3月には新たに施設を1つ立ち上げて、その忙しさと年度末の多忙が重なり、娘の入院後もなかなか家に居てやることが出来なかった。
そして3月末には、息子がインフルエンザから来る高熱で熱性痙攣を起こした。
それが終わって新年度となり、そして妻の入院と手術があった。
昨年5月のGWが終わってからこの1年間で2日続けての「連休」が出来たのは、正月と今月初めのGWの時だけだった。
この多忙な状態で活動するなか、会う人たちみんなにいつも「忙しそうだけど大丈夫?体を大切にしてね」と声を掛けて頂いている。
妻からは電話で「パパはいまどこに居るんだっけ?大阪?岡山?広島?」なんて聞かれて「いや福岡だよ」と答えたこともあった。
「忙しくて体を壊したら元も子もないよ」と言われたこともある。
でも何故にそんなに活動しているのか?動く必要があるのか?
やはり自分の中では「生きている限り、できる限りの事はやっておこう」と考えている、言わば焦りもあるかもしれない。
やはり「我が子を失う」「我が子を残して逝く」という焦りや不安を、自分が行動するなかで、気持ちの整理ととして、不安の払拭をしているのかもしれない。
実はこんな気持ちの整理が付けられ、客観的に自分を見直す事もできるようになったのは、ここ2週続けて、日曜日に子どもと過ごすこともできたから、やっと心の整理が付いてきたからだと思う。